あらかき

躁鬱の即席遺書

喜哀

塾で古典を教える機会があった。中学三年生の受験生に。10月まで俺は古典のこの字も出来なかった。そんな人間が古典を教えるのが務まるのか。不安が募った。実際それは未だ拭えず。しかし、それでも古典を理解して楽しいと言ってくれるその生徒の笑顔を見ると、いとうつくし、と云った具合で微笑ましくなった。思えば、高校生活を振り返ってみれば、その触れ合いは、初めて自分の良心を満たした出来事だったのかも知れない。同時に、これらの行いが何か生産的な事であるのかと考えると、嬉しくなる。この三年間、一人で抱え込んできた苦痛が、ようやく実用的なことに活かせる時が来た。何だか良い気持ちだと思った。

また、課題を終えて、提出し終わった。肩荷がとても軽くなったのを覚えている。が、それでも漠然とした不安や、奥から滲み出る陰鬱なものを感じ取った。あゝまた今年も苦しまないといけないのかと思うと、またやるせない気にもなり、上記のことでさえ、無意味に思うようにさえなる。それを下には下がいる。こんな程度の苦を嘆かないようにしなくちゃと云って押し潰すのだが、ふと思う。その云う下とは?他人の苦が、何を以ってして重いのか、何が基準になってるのか。いや、いい。もう分からない。あまりこう云うことに自信を持てない。あゝ自信が欲しい。就職休み、一度病院に行ってみないといけない。本当に僕のこの躁鬱は病気なのか否なのか。