あらかき

躁鬱の即席遺書

あくまでも

山田かまち君に会った。という表現は語弊がある。というのも彼はもう死んでいるからだ。エレキギターの練習中に感電死したらしい。改造した粗末なアンプからの漏電と言う説が通だ。死後、彼の両親が彼の遺品である数多くの作品(詩や絵画、更には殺人ギターなど)を美術館に展示し、本を出版した。彼を知ったのは本当に偶然だった。ひょんなことからエレキギターで感電死した人間に興味を抱いた為である。彼の描く絵に、何か近いものを感じた。違う点は僕と違い絵を描くのに慣れていて、絵を描くのが優れている点である。しかし彼の描く絵の、暗い印象を受ける憂鬱さや、頭の中でぐちゃぐちゃになって仕方のないノイズのような絵が、僕の描く絵に似ていた。それもあってか、僕は彼の作品により一層興味が湧いた。そこで僕は彼の詩を読もうと思った。

彼の詩集、17歳のポケットは、僕の住んでいる街の図書館にあったので、早速手にとって目を通した。圧倒された。彼が14歳の頃に書いた詩「蝶」という詩があるが、これには言葉を失った。彼の才能は本当に優れているものだと再確認したのと同時に、彼のそれを妬んだ。彼には、彼の確立した考えがある。それは、僕の経験上、僕らの年齢でさえ、それを我が物にするのは到底難儀なもので、また、考えを確立するための考えというものは何も一つから成るものではないからだ。僕はまだ完全に考えを確立したとは呼べない恥ずかしい学生だが、彼は14歳にしてそれを確立している。それには、彼の生まれ育った環境や経験も、勿論影響されるだろうが、僕も自分でも満足のいく環境で育ってきたと思っているくらい、環境は整っていたのだ。何がここまで差をつけたのだろうか。と言ってもこれは当時の14歳の頃の僕と彼を比較しているだけであって、そもそもこれは僕がそのような思想に目覚めた15歳の頃を基準にしない限り、なんだかいい加減な話をしている気分に文字を記しながら感じてしまうものだが。しかし、その話を抜きに作品を見ても、やはり彼の才能は素晴らしいものであると僕は思う。

また、同時に、我ら琉球の人間にも衝撃が走った事件が起きた。
10月31日未明に火災が発生、正殿と北殿、南殿が全焼した。5度目の火災とはいえ、燃えていく首里城を眺めて始まる朝は、とてもやるせなかった。最初に言っておくが、僕は首里城はそこまで好きな城ではなかった。一度は行くと良い。そのように思っていた程度の城だった。しかし、こうも簡単に沖縄のシンボルが燃えていく様を見ると、やはり沖縄県民としての何かが動いた。それは一部除いて周りもそうだった。日本史の授業で、戦後首里城を再建する様子を特集したドキュメント番組を見た。職人や、知識人が必死になって、字の如く命を削って作り上げた首里城は幼い頃に見た首里城とは違って見えた。その話を知って改めてあの悲惨な映像を見ると、やはりやるせなかった。何もできずに燃えていく。そんな光景を見るのも、また鎮火した後の灰色の広場も、より一層僕のやるせない気持ちを煽るのには十分だった。僕は沖縄の文化を毛嫌いしていたこともあったが、やはり民族の呪縛から僕は逃げることが出来なかったみたいだ。この出来事を一言で表すならば。虚無。これに限るだろう。何か、それこそこのような大きな事件というのは心を痛めたり、悲しくなったりする筈なのだが、この事件は、虚無という単語がやけに似合っている。確かに心を動かしたのかもしれないが、結局は僕の心も灰にしてしまった。

この2週間、僕は何か、人生の転機に訪れたのかもしれない。民族と同年代の感性。僕に何ができるのだろうか。僕は詩人になりたい。画伯になりたい。音楽家になりたい。僕は、はやく僕を確立したい。愛と自由を歌い、虚無と悲しみを謳おう。僕はこれからも歩いて行く。