あらかき

躁鬱の即席遺書

宣言

 僕の人生を振り返ってみても、あまり陽が差す人生ではありませんでした。振り返ると常に怒った大人達のしかめっ面、嘲笑う餓鬼の汚い顔。それが怖くて、今でも敏感になります。僕は昔から所謂"変わり者"として認知されていたらしく、変に見られたり、幼さ故のつまらない虐めの被害にあった記憶があります。また、親をはじめとする大人達によく叱られた記憶も残っています。しかし、何故怒られたのかは今でもよく覚えておらず、またこの例の嫌なしかめっ面だけが、映像として鮮明に頭の中に居座り続けています。それでも、その不思議な感性を以ってして、適当に振る舞っていると、大人達は、その何かに感心して、裏でこっそり褒めていたのだろうと、今になって思い始めてきました。その当時はまだ幼く、考える力が発達していなかったのが幸いに、これらのことを考えることはありませんでした。小学生の頃も、大体このような生活を送ってきたと記憶しています。と云うのも、小学生の頃の記憶が、今となってはぼんやりと霞んでしまっている為、正確な事を綴る事が困難だからです。しかし、これらの曖昧な記憶も、しっかりと僕のこの陰鬱な性質を決定付ける非常に重要な出来事だったのだと後になって分かりました。
 僕が陰鬱になったのは、中学2年生の頃だったと鮮明に覚えています。仲が良すぎたと錯覚していたクラスから離れて、当時の生活に馴染めなかった私は口を開くのを辞め、真面目なキャラを演じることにしました。1年間だけそうするのも、滑稽に感じたので、中学校では、そのキャラを演じることにしました。今、演じると云うなんだか格好のつく洒落たような振る舞いに見せているが、実際はそんなお洒落なものでは当然なく、このキャラはあまり先生方にも受けなかった感触がありました。それまで僕の想像していた真面目な生徒は先生に好かれるという偏見が打ち砕かれました。唯、この言葉には少し語弊があり、僕が余りにも消極的だったこともあってだったのだろうと今になって思い始めてきました。唯陰鬱に今日この日を生き延びる事が、とても厳しく辛いものだと実感した年でした。また、この中学2年の頃は、僕の他の一面でも多大な影響を受けた年でした。本格的に音楽にのめり込んだのがこの年で、友達も、味方も、また自分の居場所もなかった時期でもあったので、音楽という媒体にのめり込んだのも無理はなかったと思う反面、この一年がまた別の様な結果になっていたら、ここまで未来の道も狭まることは無かったのだろうと思います。
 高校に進学して、また更に僕は道化を演じることにしました。やはり、先生方も他の生徒(無論一部は除く)も、この僕の道化が好物らしく、中学の頃よりも生活しやすい環境を得る事ができました。また、中学の頃の陰鬱な僕を知っている知人達は、「変わったね」だとか、「あんな奴だったんだ」などと影で言っていたらしく、それを聞いたときは思わず笑ってしまいました。また、僕を面白い奴だとか、変わってる人、賢い人(僕の通っていた高校は地元でも有名なFラン高校であった為)と評価する人もいましたが、それも全部計算通りだったので得意になり、彼らを小馬鹿にしたりしていました。それと同時に、僕のことを変わらないと評価する人も少なからずいました。その様な人たちに限って、何か僕のこの陰鬱な様を少しばかりは晒しても良いかもしれないと思いもしました。また、高校に入学してからしばらくして、そううつ病の症状に似たようなものに悩まされる様になりました(未だに診断をしていないので、それでは無いのです)。この3年間(今も少なからず)このそううつ擬に悩まされる日々を送りました。僕の理想としていた青春の日々は、この病気の所為で送れなかったと今でも思っています。そうでもしなければ、僕自身にある莫大な非を認めて、また惨めに生活しないといけないからです。
 僕の人生はこれだけです。白紙1枚、そこにあるだけなのです。他といえば無駄に肥えた音楽のあれこれと、くだらない雑学があるだけです。僕の人生経験はただのハッタリに過ぎなかったのです。その白紙一枚の為に手を差し出してくれる数少ない友人にはとても感謝しています。ですが、結局僕は1人なのです。僕は孤独を受け入れるしか無いのですが、僕はまだ孤独を受け入れたくは無いのです。そして、僕はもう道化を演じることに疲れてしまいました。道化を演じて得たものは、演じた道化に対する評価だけです。ここまで命を削って得た対価に僕は不満があります。もう僕は道化を演じるのを辞めようかと思います。陰鬱な出来損ないが、まだ音楽とその他を肥やそうとする様を、皆さんには見て頂きたい。嫌なら、もう言うことはない。僕は道化を辞める。これからは唯陰鬱な彼が、彼の為に、溜息を吐くのです。